電話で注文はこちらご注文・お問合せ 022-398-9880

落合幸太郎 長いプロフィール

代表プロフィール

運営者のプロフィール

★はじめまして、現在 宮城県仙台市にて出産祝い通販ハッピープラスを運営している落合と申します。
緑の多い杜の都仙台へ東京から来て20年以上が経ちました。

生まれ:1974年5月27日 東京生まれ
趣味:小学生の息子との散歩。
  (★健康にも良く、歩きながらたくさん親子の会話ができるとこが大好きです。)
嗜好:お酒はほとんど飲みません。レモンの炭酸水が好きです。
   最近は渡辺美里の昔の曲をよく聴きます★
好きな言葉
「起きて半畳、寝て一畳、天下とっても二合半」
【意味】
広い家に住んでも、人間が立っているのには半畳のスペースがあれば十分だし、寝るのにも一畳あれば十分である。
また、いくら大金持ちになっても、一回の食事で二合半以上のご飯を食べることができない。
人が生きていくのに、それほど多くのものは必要でなく、必要以上に多くを望んでも、結局使うことができない・・・

そんな人間の限りない欲をいましめる言葉。

自己紹介

1974.5.27
赤ちゃんの写真東京都で三男として生まれました。
元気で活発な男の子です。
3歳まであまりしゃべらなかったようで、両親はとても心配したそうです。

新宿区西新宿に住み、父は居酒屋「大衆割烹おちあい」を運営。
(※現在は父と次男の2人で一緒に運営しています。創業47年くらいになります。)



1981年~
幼稚園のころの写真 東京都新宿区西新宿
淀橋第三幼稚園・淀橋第三小学校 
幼稚園と小学校が1つの校舎に入っています。
幼稚園卒業後、そのまま隣の小学校へ入学。

幼稚園時代
自宅から歩いて20分、
東京の都庁が立つ前の空き地で野球やたこ揚げをよくしていた。

淀橋第三小学校は現在「芸能花伝舎」となっています。

こどものころの写真 
小学生のとき、兄弟で分けたコーラがありました。
しかし、私は次男の分を飲んでしまい
コーラの変わりに醤油(しょうゆ)を瓶に入れておきました。
帰ってきた次男が勢いよく飲んで吐き出して一言・・「殺す気か!」
さすがに怒られました。(笑)

1986年
小学生のとき新宿の小学校から中野区の本郷小学校へ転向 。
初めての転向・・・
最後まで泣いて抵抗したのを覚えている。(笑)

中野区の丸の内線 新中野(鍋谷横丁)に住む。
中野に引っ越してきてから、小学校の歯科検診でJR中野駅デパート丸井の横にあるジョージ歯科の先生と会う。
その歯医者に通い始め、それからなぜかあだ名が「じょーちゃん」と呼ばれるようになった。
現在45歳だが高校までの友達はみんな「じょーちゃん」と呼びます(笑)



1987年
中野区第二中学校 入学
3年間バスケ部で青春の汗をかいた。
月3,000円でジャッキーチェンのファンクラブに入会していた。

相田翔子と鈴木早智子のwinkのファンだった。

勉強はできず、成績が悪かった(笑)
高校進学もグループの補欠でなんとか進学ができた。

 


1989年~
杉並区 永福高等学校
12期生として入学。
創立12年目に入ったので新しい高校。

(※現在は旧桜水商業高等学校と合併して杉並総合高校となっている。)

 ここでも3年間バスケットを楽しんだ。

高校の文化祭でバスケット部の先輩たちに誘われ、バンドのボーカルをした。
それまであまり気づいていなかったが、実は歌が下手だった。
体育館の壇上で多くの人の前で全曲、英語で熱傷。(笑)
ひどい歌声だったと思うが、「若さ」と「勢い」だけの時期でした。

BOOWY、渡辺美里やジュンスカ、TMネットワーク、米米クラブ、永井真理子など
通学の自転車でよく聞いていた。

1992年 大学受験に失敗。代ゼミに1年通う。  
ノートは綺麗に蛍光ペンを使って整理するが、頭に入っていないためいつも偏差値は45だった(笑)

 

1993年
専修大学 法学部法律学科に入学。
スキーやテニスなどやるサークルに入り、学生時代を楽しんだ。
スキーのインストラクターアルバイトが面白かった。
長野県に住み込みをして、
高校生の修学旅行生にスキーを教えるというもの。
ボーゲン程度のことを3泊4日くらいで毎日教えた。
アルバイトも含め講師は30人くらいいた。

「生徒の前では絶対に転んではいけない」という暗黙のルールもあった。
しかし、私は生徒の前で転んでしまった。
今でも恥ずかしい思い出です(笑)」

 

 

1994年
20歳 成人式。

中野サンプラザで成人式がおこなわれた。
会場では、壇上から「立川談志」師匠より成人への祝福の言葉をいただいた。
最初は会場がうるさく、
談志師匠はすぐに帰ってしまった。

その後、また壇上に戻りこう言った。
「おまらみたいな若造に何を言ってもわからないと思うが、これから一生懸命がんばれ! ただそれだけだ。」
がらがらのかすれた声だったが、力強い言葉に背筋がピン!と伸びた瞬間でした。

 

大学生活4年間では旅行もたくさんしました。
東北、関西、九州・・・
原付バイクで東京から宮崎県に行ったりもした。
バスを貸し切って長野や新潟にスキー旅行に行ったり、
飲めないお酒もよく飲みました。(笑)

卒論では再試験となり、
なんとか最終で卒業できた。
 就職も決まっていたので、とても焦りました。

 

 

1998年
御茶ノ水にある医療関連会社 
㈱千代田テクノル入社  
原子力事業部に配属され、宮城県仙台市へ配属。

大学の卒業旅行で北海道に行き、
帰宅した翌日3月3日9:35 
会社の人事部より電話がありました。
「落合くんは仙台営業所に配属となったのでよろしくお願いします。」  
との内容でした。
  
仙台営業所配属を電話で伝えられショックを受けた。
母が体調を崩していたので、てっきり本社 御茶ノ水での勤務と勝手に思っていた。
 
朝も早くからの電話だったため、2度寝して12:30に起きた。
電話内容のメモしていたので、
改めてメモを見て夢ではなかったと・・・2度目のショックを受けた。


宮城県仙台市若林区で一人暮らしがスタート。
新社会人として4年間、
毎日のように仙台市内から女川原子力発電所へ
往復4時間くらいかけて営業をしました。

4年後、退社。
【辞めた理由】
自分でものを作り、そして売る仕事がしたいと飲食店の調理業務へ転職を決意。   
未経験の仕事ではあったが28歳にして初めての転職。
 

2002年
飲食店「開国屋」に入社。
仙台の繁華倍 国分町近く洋風居酒屋。

調理未経験だったが、
自分で作った料理を写真に撮りファイリングをして社長に面接で提案。
包丁もほとんど使ったことが無いのに、今考えるとよく入社できたなと思う。(笑)

無事に入社し、初日に包丁を買い
包丁の握り方からチーフに教えてもらい、厨房で毎日調理業務をした。
料理を運ぶこともあり、色々な人が楽しそうに会話をしているのを見て、
外食とは、食を楽しみ、また人と人とがコミュニケーショーンが取れる素敵な空間だと肌で感じました。
2年半後に調理師免許を取得後、退社。

【辞めた理由】
料理を作るという視点ではなく、
外食全体を盛り上げたいという視点から
厨房からではなく、外食の素晴らしさをインターネットという場所から広めようと「飲食店情報サイト ぐるなび」に転職。   

当時は、スマップが「ホットペッパー」というグルメクーポン雑誌をCMしていたこともあり、
割引店を探してお店を選ぶということが一般的だったため、
「割引券」ではなく「お店の魅力」をインターネットで伝える『ぐるなび』に入社しました。

2005年

㈱ぐるなび仙台営業所に入社。
仙台営業所は2人だけの小さな職場でした。
毎日飛び込み営業をおこない、名刺交換した方へ手紙を書く毎日でした。
その後、マザーズ上場
そして東証一部上場することで事務所も変わり、スタッフも増え
入社から4年後には仙台営業所全体をみる立場になり、東北エリアリーダーとして勤務。 

2008年 
妻と結婚。
運動のため通っていた市民屋内プールで私が鍵を落として、それを拾ってくれた 現在の妻です(笑)  

2010年

第一子誕生。
㈱ぐるなびを6年勤めて退職。 
  
【辞めた理由】
6年間で300人以上の飲食店経営者と会いました。
色々な経営者から
「仕事は与えられたことをやっているのは仕事ではなくそれはそれでは業務だよ。
 自分で考えて仕事をすることが仕事というものだ。」

ということを学びました。

自らも独立して「人の悩みを解決し、人に喜びを与えられるような仕事をしたい」と思い、
26歳の時にはじめての出産祝いを贈るときに感じた悩みと
36歳の時に第一子を授かり、出産祝いをいただくか立場から経験したことを活かして、
「贈るほうも悩まず簡単で、相手も全商品から自由に選べる出産祝いギフト券を作り、ハッピープラスを立ち上げました。」

2011年
3月11日 東日本大震災で近くの小学校へ避難生活。
自宅が仙台市から全壊認定される。   

ハッピープラスから受け取られた方にさらに「幸せな気持ち=ハッピープラス」になっていただきたいと思っています。

2011年3月11日 東日本大震災の被害画像2011年3月11日 東日本大震災 震災時の画像

2011年 出産祝い通販・ベビー服・ギフト券 Happy Plusを運営。  
     現在に至り、日々勉強中です。     

 

arrow

ページ上部に上がります。

© 2011-2018 Happy Plus.All rights reserved